いわき市文化財保護審議会委員・齋藤一夫先生(図)
高蔵寺は寺伝によれば大同二年(807)徳一大師によって開かれ、以後観音霊場として栄えた。
中世の応永年中(1394~1429)には堂塔の改修が行われ、永正十五年(1518)に磐城三十三所観音の六番札所になり、慶安元年(1648)徳川家光より永代三十石の御朱印を授けられた由緒ある名刹である。三重塔は安永三年頃(1774)に権大僧都承隆和尚によって再建された。このことが本堂の傍に建つ石碑や相輪伏鉢に刻銘されている。
塔は一辺の長さが初重之間40支3636mm、(中之間16支)二重之間34支3090.6mm、(中之間12支)三重之間28支2545.2mm(中之間10支)の三間三重塔婆で15.756m(52尺)程の高さである。
屋根は、創建当時柿板葺きと考えられるが、現在は銅板葺きに葺き替えられている。四周には擬宝珠勾欄を付した縁があるが二層三層には勾欄がなく三重塔としては珍しい。
堂内には本尊として千手観音仏が安置されていたが現在は観音堂に移され、その後に徳一大師坐像が安置されている。建築様式は折衷様式部分的に禅宗様式も色濃く見られる。
県指定有形文化財の高蔵寺三重塔に比肩すべき塔は、県内に東和町の隠津島神社三重塔と会津高田町の法用寺三重塔の二基現存するが、いわき市においては唯一のものである。
次に図面(木割)により一部解説する。
三重塔の初重から三重平面迄、正面三間、側面三間の正方形で直径約三十センチの棒材の円柱十二本が礎石上に建てられ上の階毎に細くなる、正面出入口は桟唐戸、両脇間には如意花頭が設けられ、連子割縦格子が均等に配されている。両側面中央には板引違戸が付けられその外の壁は全て阿迫板壁になっている。
床は板張りで中央後部には後補の禅宗様須弥壇が置かれ、その上には旧観音堂から移されたと思われる唐破風の彩色された厨子が置かれている。初重中之間柱には須弥壇跡が刻まれ、重要な虹梁の切断跡が見られる。
天井は格組49小間跡が刻まれている。床組の柱断面は八角形に削られている。これらの断面形の変遷は、奈良時代頃から室町時代頃までは一般的に円形断面であったが、江戸時代頃に入って八角形断面に定着した。
この柱の四周には地貫が組まれ、中央2本、側面2本の柱→元には 直径400mm程の丸太が井桁状に架け渡され堅固な骨組を構成している。
二層目から中之間中央に直径400mm程の手斧削り八角断面の心柱が初重梁上部に架け渡された大梁の上に組立てられている。
心柱について説明を加えると、奈良時代に建立された法起寺、薬師寺等上代の三重塔は五重塔と同様初重心礎(地中又は壇上)から直接建てるのを、始めにしていたが平安時代に建立された一乗寺・浄瑠璃寺のころから初重天井上で止める工法となり、それ以後三重塔は全てこの形式にするのが流行となり、仏像を安置するため室内空問を広くとる工夫がなされた。
斗木共は三手先組で尾垂木や拳鼻、支輪などが組まれている。
垂木は二軒本繁垂木、垂木割に6支落ち工法がとられている。
三重塔の屋根上部のシンボルとして相輪が用いられているが心柱が屋上水煙迄支えており、そこに相輸が嵌められている。
この原形は、印度より中国に伝わり日本に入ってきたものであるが、相輸の最下部にある四角の部分を露盤といい卍模様があり、伏鉢・受花・九輪(宝輪)と火炎付宝珠の水煙を突針でとめている。
二層・三層に高欄がない“シンプル”外観である。